TopIto, Yoko 伊藤 洋子

Yoko's essay works

伊藤 洋子 の エッセイ

よーこ先生、しっかりしてください。

3歳の記憶、そして

2001/06 vol.006

 猫食堂

 豚肉

 緑色のフォーク

 500円札

 ほしぶどう


母方の祖父は、私が4歳になる前に

この世を去った。76歳であった。

私が産まれた時からずっと一緒に生活してきた祖父。

 

赤子のまま死んでいった彼の子供たちが多い中、

成人して家庭を持てたのは

私の母だけだった。

 

1891年(明治24年)の2月5日生まれ。

 

祖父は少年時代の

或る嵐の日

本物の龍が

天に昇っていくのを

弟と

見ている。

 

大人になって、国鉄の職員になったが、何かのトラブルで辞めてからは、

露店で、

伊藤 家 秘伝(?)の

求肥(ぎゅうひ)を売ったらしい。

 

※ 求肥(ぎゅうひ)‥‥蒸した白玉粉に白砂糖と晒水飴とをねり固めた柔軟で弾力ある菓子。

 

母もいない今、

誰もその菓子の作り方わからん。

 

60歳位で 妻を亡くしている。

楽しみは、動物と読書と酒。

出かける時に、いつも 何を着るかで、かなり迷っていたらしい。

 

明治・大正・昭和と3つの時代を生きた。


◎  猫食堂

猫を飼っていたというよりも、通ってくる何匹かの猫に餌を食べさせていたらしい。

いわば 我が家は 猫のための食堂であったらしい。

何よりも祖父が猫好きだった。

私は3歳の頃、その中の1匹に

ポケットに入っている チリ紙を 盗られてしまったのを、今でも はっきりと覚えている。

泣きじゃくる私を抱きあげて、笑いかけてくれた祖父。


◎  豚肉

祖父の友人で養豚業を営む人が 割と近くに住んでいた。

正確には、その人も かなりの ご老体で、

すでに仕事は引退して、息子夫婦に まかせていた。

彼の鳥打帽子と杖を今でも良く覚えている。

或る時、その人は 豚を一頭 ではなく 豚の精肉を1包み 持って 我が家に来た。

その肉の事は、彼の家族には内緒らしい。

母が不在だった我が家では

(別に夫婦ゲンカをして家を出たわけではなく、姉の小学校の行事に参加していた)、

父が その豚肉を調理した。

祖父、父、そして紅一点の私で食べた。

客人は いつのまにか 帰っていた。

何とも言えない あの時の味。

肉が悪かったのか、料理人の腕に問題があったのか!

実は その豚肉は、子供を産み終えた お婆さん豚 でした。

「シャキ、シャキして、プーンと くさいから、いらない!」

と、当時、3歳の〝生意気 よーこちゃん〟が 言ったらしい。

ああ、あの肉の脂身ときたら、本当に

白菜のような妙な食感で、生臭かった。

あれ以来、豚肉は 苦手だ。

ちなみに、生きている豚は ずっと好きなので、子離れしたら、

1頭位 欲しいと思っている。


◎  緑色のフォーク

長年の酒、酒、酒の生活がたたって、

祖父は いつしか 中風 になって、

指が うまく 動かないため、食事の時は、

箸ではなくフォークを使っていた。

彼が使うフォークには、緑色のテープが何故か巻いてあったのが、ちょっと謎だった。

緑色が好きだったのか?

何かの おまじない?

他の人が使うのと区別するため?

だって、別に うつる病気じゃないんだから、

それに、当時、我が家で、食事でフォークを使う習慣が なかったのだから。

あ、祖父の他にもう1人 3歳児だった 私 が 使っていたのかな?

現在、4歳の真秀(まほ)が、まだフォーク使うんだから、

それより小さかった洋子は使ってたよね?

でも、昔の家庭って、トイレのしつけでも早いですよね?

じゃあ、箸を使わせるのも早かった?

でも、私、昔も今も ぶきっちょ だから、

やっぱりフォーク使って、ごはん 食べてたかな?


◎  500円札

祖父は或る日の夜、

「よーこ、おいで」

と自分のそばに呼び、

500円札を1枚 くれた。

お金の価値もわからない 私に である。

いよいよ 来る時が来た。

家族の者たちは 思っていた。

結局、お金は、母が 預かったのか。

母も死んだ今、あの500円札はどうなったか

わからない。


◎  ほしぶどう

Raisin と書かず、乾葡萄と漢字でもなく

ほしぶどう。

やはり、ほしぶどうである。

平仮名で書くと、〝欲しい葡萄〟のようでもあり、

〝星のような葡萄〟ともとれて、なかなか良いでしょ?

 

実は、子供の頃の私の大好物

(他にも好きな物は いくつか あったが、今回は それは 省略)

でした。

親戚のおばさんとかの中でも、もう、

この子は ほしぶどう

と わかっていて、

おみやげには 必ず ほしぶどうを持ってきてくれる人がいた。

 

1967年3月5日、祖父 伊藤 權三郎(ごんざぶろう) 永眠。

私にとって、初めて迎えた死なのだが、

3歳ということもあったし、

静かに訪れた出来事だったので、

それほど、

衝撃的ではなかった。

狭い家に大勢の人が入ってきて、

ざわざわやっている事が不思議でたまらなかった。

ほしぶどうを長いこと食べていなかった。

親とかまわりの人たちに言った。

ほしぶどうを食べたいと。

もちろん、皆、そんな余裕なんてない。

葬式の当日、ぞろぞろと墓まで行く。

(あの頃は、私の実家の方では、土葬が当たり前だった。)

なじみの〝駄菓子屋〟というよりも

運動靴からお惣菜まで売っている〝萬屋〟

がある。

私は

「ほしぶどう、ほしぶどう」

と わめきながら、

店の入り口に しがみついた。

しかし、

あっさりと誰かに引き剥がされてしまった。

なんと、店は休みだった。

私は大人にだっこかなんかされて、

祖父を埋葬する墓まで連れて行かれた。


祖父の存在は、3歳児の私にとって、

やはり、かなり大きかった。

私が産まれた頃、足もかなり弱っていたので、

私をおぶって、散歩に連れ出すというのは、

できなくなっていた。

それでも、

「洋子の帯解(おびとき)までは生きたい」

と良く言っていた。

しかし、私が4歳になる前に逝ってしまった。

76歳。決して早くはなかった。

ただ、私にとっては、3年と10か月のつきあい。

短いといえば短かったかもしれないし、

長いといえば長かったかもしれない。

 

※ 帯解 (おびとき) ...... [ひもとき] とも言う。数え年7歳の11月、子供がはじめて帯を用いる祝いの儀式。

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おかげさまで売れてます。

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[伊藤 洋子 大全 1998]

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